Cecil Taylor 80's セシル・テイラー 1980年代


(1950年代1960年代1970年代1980年代1990年代2000年代~)


1980.2.08.&09.
CECIL TAYLOR / It Is In The Brewing Luminous (hut Art /1980)
  
セシル・テイラー(p)サニー・マレー(ds)ジミー・ライオンズ(as)ラムゼイ・アミーン(vln)アラン・シルヴァ(b, cello)ジェローム・クーパー(ds, african balaphone)

シャノン・ジャクソン時代のつぎのセシル・テイラー・ユニットには、なんとサニー・マレーとアラン・シルヴァが戻って来ました。シャノン・ジャクソン時代同様、途中で定形ビートの指示部分があります。バラフォンが入り、比較的穏やかに、且ついつものような幾何学模様のような音を織り上げていく途上、空気が変わります。その定形ビートの指示にジェローム・クーパーが持ってきたのは、なんと6/8拍子。前任のシャノン・ジャクソンが普通のシャッフル系8ビートを持ってきたのに対し、ジェローム・クーパーは洗練された6/8拍子。これはシャノン・ジャクソン時代の野暮ったさを考えるとかなり意外であり、また随分機転の利いた選択です。この3拍子を基調としたハチロクビートはアフリカ大陸の音楽によく見られるもので、人間の心臓の鼓動に対応しているとも言われます。このジェローム・クーパーの高度なセンスに他の楽器郡も自然に流れに乗っていく様子は鳥肌もの。このアルバムは初めから最後まで、ドラム2人のセンスが光ります。年代的には中途半端な時期のアルバムですが、有名な「アキサキラ」(73年)や「ダーク・トゥ・ゼムセルブズ」(76年)よりも遥かに名盤度は高し!ちなみに、ジャケはLPバージョン(Hat hut)、hut Art バージョン、Hatologyバージョンの3種類あります。N.Y.Fat Tueseday'sでのライブです。

1980.9.14.
CECIL TAYLOR / Fly! Fly! Fly! Fly! Fly!(MPS/1980)

セシル・テイラー(p)

1973年の「Solo」や、1990年の「In Florescence」などと同列の部類に属する作品。基本的モチーフのサンプル集のような性格もあります。ひとつ前のピアノソロに当たる大作「Air Above Mountains」とは正反対の趣きです。短い中にも様々なヴァリエーションを見せ、大きなスケールで展開されることもありますが、基本的には小品集的な内容のアルバム。ところで、このアルバムにしても「Solo」にしても「In Florescence」にしても、いずれもスタジオ録音です。これら3作のスタジオ録音では、ライブ録音とは違って落ち着いて音のひとつひとつを置いていき、いずれも1曲が短くなっているのが興味深いところ。本作の1曲目などはたったの53秒。しかし、その中に潜む芳醇なハーモニーの美しさと怪しさは比類がない。どの曲も短いながら、エッセンスが凝縮された非常に密度の濃い内容になっております。

1981.11.08.
CECIL TAYLOR / The Eighth (hatOLOGY/ 1981)

セシル・テイラー(p)ジミー・ライオンズ(as)ウィリアム・パーカー(b)ラシッド・ベイカー(ds)

シャノン・ジャクソン脱退(1978年6月)後、セシル・テイラー・ユニットのドラムはスティーヴ・マッコール、ケネス・タイラー、マイケル・カルヴィン、ジェローム・クーパー、と経て、79年12月にはアンドリュー・シリルが、80年9月にはサニー・マレーが戻ってくる。ついでにあのアラン・シルヴァ(b)まで戻ってくる。…というように頻繁にメンバーが入れ替わるわけですが、その間に、セシル・テイラーはトニー・ウィリアムス、マックス・ローチらとデュオ・セッションも行っています。そんな激動の時代を経て、80年11月、ベースのウィリアム・パーカーとドラムのラシッド・ベイカーが加入。ここに。84年まで続くことになった新生セシル・テイラー・ユニットが出来上がることになります。このユニットによる初のアルバムが本作になりますが、基本的スタイルとしてはこれまでの延長線上にあり、いわば70年代以降のスタイルの総決算的な内容です。新メンバーなのに総決算的内容というのがいかにもセシル・テイラーのグループという感じですが、それほどまでにセシル・テイラーの意志が音楽に強烈に反映されているということでしょう。とはいえ、新たなメンバーが運んで来た新しい面もあって、野卑とでもいいたくなるほどに激しいウィリアム・パーカーのベースは、セシル・テイラー&ジミー・ライオンズに全く引けを取らず、セシル・テイラー音楽に新たな座標軸を作って新たな時空間を展開しています。そして、あまりにも激しく動き回るベースにより、音楽全体に浮遊感が生まれています。これまでのセシル・テイラー・ユニットでは音楽的主導権は完全にセシル・テイラーひとりにありましたが、ウィリアム・パーカーはテイラー以上に「我が道を行く!」といった風情なので、ときおりウィリアム・パーカーが主導権をにぎっているかのような錯覚を起こしそうになるところが意外に面白い。特にTake2のセシル・テイラーとウィリアム・パーカーとのデュオ部分は聞き物。ちなみにこの後、セシル・テイラー・ユニットはこのメンバーを核に人数を増やしていき、セシル・テイラー・ビッグバンドを組織したり、ダンサーやヴォーカルを入れたライブを行ったりしています。アルバムとしてはビッグバンド形式の音源(84年10月)が「Winged Serpent 」として出ていますが、これが今のところセシル・テイラーの片腕ジミー・ライオンズを聴くことが出来る最後のアルバムです(ジミー・ライオンズは86年に死去)。そんなわけで、この「The Eighth」というアルバムから始まったユニットがジミー・ライオンズの最後のレギュラーユニットということになり、25年にわたるテイラー=ジミー・ライオンズの最終章ということになります。しかしながら、この最終章の時期のセシル・テイラー・ユニットのアルバムが「The Eighth」と「Winged Serpent 」のたった2枚しか無い(今のところ)のはちょっと寂しい気がします。ずいぶん沢山ライブをやっているのに…。 

1980.11.16.
CECIL TAYLOR / Garden Part 1 (hat ART/1981)
CECIL TAYLOR / Garden Part 2 (hat ART/1981)
 
セシル・テイラー(p)
70年代のセシル・テイラーの怒濤のピアノソロ群に比べると、ややテンポを落としてじっくり弾いているという感じもありますが、迫力はさらに増しているような…。タップリ2枚分(LPもCDも)通して聴いているとそのあまりの密度に圧倒されます。これまでのピアノソロ・アルバム(PraxisからFly! Fly! Fly! Fly! Fly! まで)をまとめたようなところもあって、とにかく充実した内容のピアノソロ。見事なまでの構成力は相変わらずというか、ますます磨きがかかっているというか…。このアルバムの後、84年の「Winged Serpent」までブランクがあり、その間の音源は今のところ出回っておりません。ラージアンサンブルやビッグバンド形式、さらにはヴォイスパフォーマンスなどをも試していたころであり、まさに変化の途上にある重要な時期なので是非この時期の音源も聴いてみたいとろころなのですが…。

1982.9.24.
CECIL TAYLOR / Cecil Taylor Live In Pisa '82

Recorded live in Pisa, Italy, on July 24th, 1982
Cecil Taylor(p)

低音部からゆっくり静かにと音を探し始め、徐々にフレーズをつなげていきます。どこかキース・ジャレット的な思索的雰囲気も漂いますが、その後スピードを上げていくといつものセシルの姿です。ちなみにこれは「Garden」の翌年のソロ・ライブ。最初が28分、つぎが15分、13分、10分、11分、6分、と短く区切っています。80年代のセシルのソロは「Fly! Fly! Fly! Fly! Fly!」から始まるわけですが、このアルバムで70年代の壮大なスケールの長尺ソロからスタイルを変え、そのままの流れで81年の「Garden」を経てこの82年ライヴへと至る、という見方も出来ます。この82年の前半、セシル・テイラーはビッグバンドを組織してツアーも行っています。 

1983.7.27.
CECIL TAYLOR / live at "Villa Imperiale", Genoa, Italy, on July 27, 1983

Cecil Taylor(p) 

イタリアでのピアノソロ。音質が非常に良好で、セシル・テイラーのうなり声もずっと入ってます(笑)。ピアノの合間に、よく分からない言葉(歌なのかな?)を発したりして、ちょっとした弾き語りのようになってる場面も。で、そこに消防車(救急車かな?)が通る音が入ってたりして、なんだか臨場感たっぷりです。途中ピアノ弾くのやめて暴れ回る(踊り?)音も入ってます。どこか上機嫌なセシル・テイラーの姿。ところで1983年といえば「Nicaragua」の録音年ですが、このライブはそのちょうど1ヶ月前。「Nicaragua」はvoiceを効果的に使っていましたが、このソロライブのパターンをグループ単位に拡大したような場面が「Nicaragua」にあります。 

1983.8.27.
CECIL TAYLOR / Nicaragua: No Parasan/Willisau '83 Live (1983)

セシル・テイラー(p)ジミー・ライオンズ(as)ブレンダ・バーカー(vo)ウィリアム・パーカー(b)ラシッド・バーカー(ds)アンドレ・マルティネス(per)

セシル・テイラーにしては非常に珍しくヴォーカルをフロントに置いた布陣。LP2枚組で、スイス録音。とにかく物凄い熱気で、客の反応もすごい。ブレンダ・バーカーのヴォーカルは、ジミー・ライオンズと同じようにセシルのフレーズをなぞって(C面~D面に顕著)フロントとして堂々と主張していることもあれば、各楽器の後ろで楽器のひとつとして埋もれていることもある。いずれにしてもセシル・テイラーのグループにこのようなヴォーカルが入るものは現存する音源の中では非常に珍しく、80年代初頭の実験的なセッションの記録ということでも貴重です。また、ジミー・ライオンズの素晴らしさも見逃せません。ジミー・ライオンズのセシル・テイラー・ユニットにおけるラスト音源はこの翌年のアルバム「Winged Serpent」になりますが、80年代のジミー・ライオンズ入りのセシル・テイラー・ユニットのアルバムはその「Winged Serpent」、本作、そして「The Eighth」(81年)、「It Is In The Brewing Luminous」(80年)の4作品のみ。その意味からも本作の貴重さは大きい。本作でのジミー・ライオンズの好調さを考えれば、この前後の音源もきっと凄いことになっているのでは…。いつか出て来て欲しいものです。ところでこのアルバムのC面、ブレンダ・バーカーとセシルとのヴォイスの掛け合いがあります。セシルのヴォイス・パフォーマンスは80年代半ばから本格化していきますが、このアルバムはその最初期の姿を捉えたものとして興味深い。また、D面途中でファーストステージが終わり、ブレンダ・バーカーが抜けた短いセカンドステージがありますが、こちらの盛り上がりとテンションの高さも尋常ではありません。

1984.10.20.
CECIL TAYLOR (Orchestra of Two Continents) / Music for Two Continents

1984.10.20. Muhle Hunzigen, Swiss Radio Broadcast
Cecil Taylor (p, voice) Jimmy Lyons (as) Enrico Rava (tp) Tomasz Stanko (tp) Frank Wright (ts, bcl, voice) John Tchicai (ts, voice) Gunter Hampel (bs, bcl, fl) Karen Borca (bassoon) William Parker (b) Andre Martinez (ds, per)

スイスのラジオ音源。とにかくメンバーが凄い。NYのセシル・テイラーのグループにヨーロッパの精鋭達が加わった構成。84年の「Winged Serpent」の前日録音で、メンバーは「Winged Serpent」とほぼ一緒。この時期はこのOrchestra of Two Continentsのメンバーでヨーロッパ・ツアーをしており(ドイツ、チェコ、スイス、イタリア、ポーランド、フランス、の順)、この音源はそのうちのスイスでのライブ。これだけの人数がいながらどの音が誰の音なのかがはっきり分かるんだからそれぞれのメンバーの個性の強烈さが分かります。「Winged Serpent」が編集された作品のような感触があるのに対し、こちらの演奏は音が生成してくるときの生々しさがそのまま出たような感触。 

1984.10.22.-24.
CECIL TAYLOR / Winged Serpent (Soul Note/1984)

セシル・テイラー(p)エンリコ・ラヴァ(tp)トマス・スタンコ(tp)ジミー・ライオンズ(as)フランク・ライト(ts)ジョン・チカイ(ts, b-cl)ギュンター・ハンペル(bs, b-cl,vib)カレン・ボルカ(bassoon)ウィリアム・パーカー(b)ラシッド・バーカー(ds)アンドレ・マルチネス(ds)

80年代の大名盤。前作から実に3年ぶりのアルバムで、スタジオ録音。セシル・テイラー渾身の意欲作です。11名編成のビッグバンド形式。音の波がさまざまに交錯し、美しいタペストリーを作り上げます。そしてそこを縦横無尽にセシル・テイラーのピアノが跳ね回る。どの曲もきちんと作曲されており、形がハッキリしているものの、ソロパートは各楽器のソロの受け渡しといった単純なものではなく、混沌としたまま音が流れていきます。テーマ部はジミー・ライオンズが中心になり最もはっきりと旋律を奏で、そのあとを波のように他の楽器がついていく形。3曲目の、全員のヴォイスとパーカッションから成り立つ曲では、セシル・テイラー音楽に内在するリズムが浮き彫りになっていて実に興味深いところ。4曲目の、あまりに凄まじいセシル・テイラーのプレイには鳥肌が立ちます。また、ドイツの重鎮ギュンター・ハンペルの参加も本作に於ける重要なファクターで、その強烈な音の存在感はこの作品に深みを与えるに十分です。また本作のジャケット・デザインはどことなく名作「Unit Structures」をふまえたもののように感じてしまうのですが、やはり「Unit Structures」の大編成ヴァージョン的な意味合いもあるのでしょうか。ところで、このアルバムはジミー・ライオンズが参加した最後の作品でもあります(1986年に死去)。先頭を切ってホーンセクションを引っぱるジミー・ライオンズの勇姿が実に印象的で、セシル・テイラーの片腕であったジミー・ライオンズの最後を飾るにふさわしい名作です。

1984.10.30.
ART ENSEMBLE OF CHICAGO +CECIL TAYLOR/Le Theatre Musical de Paris(1984.10.30.)

セシル・テイラー(p)アート・アンサンブル・オブ・シカゴ(レスター・ボウイtp,per、ロスコー・ミッチェルas,ss,bass-sax,per、ジョゼフ・ジャーマンts,ss,fl,perマラカイ・フェイヴァースb,per、ドン・モイエds,per)

セシル・テイラーがAEOCと初共演したときの映像。ブートDVD-Rです。演奏の始まりはAEOCとともにパーカッション演奏、そしてヴォイスパフォーマンスがずっとつづきます。セシル・テイラーがピアノに向かうのは25分すぎのこと。AEOCが4ビートで演奏し始めてからです。ロスコー・ミッチェル、レスター・ボウイ、ジョゼフ・ジャーマンがそれぞれソロをとるときのバックを、奇妙な和音と独特のアクセントでつけていくセシル・テイラー。セシル・テイラーの4ビートというのは62年の「Into The Hot」以来ではないでしょうか(メリー・ルー・ウィリアムスとのアルバムもありましたね)。相当貴重な映像です。45分すぎからセシル・テイラーだけのソロになり、ガラリと雰囲気が変化。お馴染みのフリーな展開です。そこにまずレスター・ボウイが絡んでいき、静かにAEOCが加わっていきます。AEOCのメンバーの音を置くバランス感覚の素晴らしさに驚きます。1990年のセシル・テイラーとAEOCとの共演盤よりも内容的に優れており、とにかく圧巻。AEOCをそのままセシル・テイラー・ユニットのメンバーにした方が良かったのではなかろうか、というほどの素晴らしさ。ピアノを弾いてない最初の25分は端折って残りの音源をCD化してくれないものだろうか。ちなみにこのDVD-R、何故か「Lester Bowie Germany '84」(全75分。メンバー不詳)なるCD-Rもオマケ(?)で付いている。

1984.11.1.
Cecil Taylor Orchestra of Two Continents

Cecil Taylor(p) Tomasz Stanko(tp) Jimmy Lyons(as) Frank Wright(ts) John Tchicai(ts) Gunter Hampel (bs,bcl,fl) Karen Borca(bassoon) William Parker(b) Andre Martinez(ds)

このライブは「Winged Serpent」とほぼ同一メンバー(Rashid Bakrが抜ける)。Orchestra of Two Continentsとして1984年10月14日から11月1日まで行なったヨーロッパツアーのうちのひとつで、パリでの演奏。きっちりと作曲されているようで、作曲部分と即興部分とがはっきりしている。アバンギャルドとはいえ各人のソロを順に回していくところは伝統的なジャズを感じる。これには映像が残っており、奏者が楽譜を見ながら丁寧に演奏していく姿が捉えられている。セシルは動きが激しく、上半身でダンスしているかのよう。セシルの音はダンスそのもののように思えてくる。

1985.2.22.
ONE NIGHT WITH BLUE NOTE, VOLUME 2 (bluenote/1985)

セシル・テイラー(p)他

1985年のワン・ナイト・ウィズ・ブルーノートでの演奏。このライブ、かつてブルーノートに所属していたミュージシャン達が集まっての新生ブルーノート記念のコンサートだったわけだが、セシル・テイラーだけはピアノ・ソロ。ブルーノートにおけるセシル・テイラーの立ち位置が良く分かる…。たった12分42秒だけど、セシル・テイラーの音楽をコンパクトに凝縮したような密度。実に分かりやすい構成です。短い時間内に起承転結というか序破急というか、理路整然とまとめ上げているところなんかは、なんとなく60年代ブルーノート時代のセシル・テイラーを思い起こさせます。1967年に忽然と姿を消し18年ぶりに公の場に姿を表したアルフレッド・ライオンに捧げる為に弾いていたのだろうか…。

1985.6.29.
CECIL TAYLOR UNIT /Aliocha

Festival International de Jazz de Montreal 1985-06-29
Cecil Taylor(p) Jimmy Lyons(as) Frank Wright(ts, b-cl) William Parker (b) Andre ('Henry') Martinez(ds)

セシル・テイラーのブート音源は海外のFMラジオからのエアチェックが多いようですが、この音源もまたFMラジオから。この時代のセシル・テイラー・ユニットの公式音源は非常に少ないのでとても貴重です。この前後の時期、グループとしての公式録音は81年The Eighth、84年Winged Serpent、86年Olu Iwa、87年Live In Bologna、がありますが、CTユニットと名のつくものに限定すれば81年The Eighthから87年Live In Bolognaまで飛びます。ところで、ジミー・ライオンズは86年3月に亡くなりますが、このライブはジミー・ライオンズのほとんど最晩年の音源。とはいえ、いつもと変わらぬジミー・ライオンズの姿がここにあります。このときはまだ元気だったのか、あるいはすでに病気だったのか…。とりあえずはジミー・ライオンズの演奏はかなり素晴らしい出来です。さてこのライブ、ドラムのアンドレ・マルチネスがフランク・ライトのソロのときのバックで面白い叩き方をしています。まるでM-BASEやデイヴ・ホランド・グループのような変拍子ドラム。セシル・テイラー・ユニットにしては結構珍しい光景です。また、ベテランのフランク・ライトはフレーズを吹かずにボエ~ボエ~とシェップ系の音をいい感じで出しております。

1986.2.08.
CECIL TAYLOR / Amewa ~Live at Sweet Basil (soundhills/1986)

セシル・テイラー(p,voice)

実に明快な構成のアルバム。例の基本形(基本的モチーフ)のヴァリエーション(変奏曲)とでもいった感じ。セシル・テイラーの音楽には基本形というのがいくつかあり、ソロのときはいつもそれらの組み合わせと変奏曲で成り立っています。このアルバムはたったひとつの基本形だけから成り立っているようです。2曲目の40分すぎのところで、テンポが急に遅くなり、基本形がスローに演奏される。それまで早すぎてよく分からなかった部分がテンポを落としたとたん明確に立ち現れてくる瞬間はある意味感動的。基本的モチーフはベースライン(左手)が明確にあって、しかも変拍子リズムによって成り立っていたのでした。その昔、チャーリー・パーカーの45回転のレコードを33回転にしてみるとロリンズになるという実験が流行ったなんてことを何かの本で読んだことがありますが、それに似たようなもんでしょうか(笑)。基本的モティーフがこんなに分かりやすい形で出現するのは極めて珍しいことですが、ニューヨークのスウィートベイジルでのライブということで客の耳も肥えてるだろうし、何か特別な気合いでも入ってた…なんて訳はない(笑)。

1986.2.08.
CECIL TAYLOR / Iwontunwonsi~ Live At Sweet Basil (sound hills /1986)

セシル・テイラー(p)

まるでバロック音楽のような構築感。白熱してどんなに遠くに飛んで行ったとしても、また元の地点にまで舞い戻ってくる…。このバランス感覚はセシル・テイラーのソロに特有のもので、どんなにエキサイティングな場面でも常に俯瞰で音構造を考え、冷静に音を構築していることが分かります。このアルバムは「Amewa」と同日録音で、いわば姉妹盤。2ヶ月後の「For Olim」の思索的な音作りの片鱗も見え隠れしています。ところでこのアルバムの邦題は「真の美とは!」。なんとかならなかったのだろうか、この題名…。普通に「イウォンタンウォンシ~ライブ・アット・スウィート・ベイジル」でいいではないか?ちなみにこのアルバムの発売は録音(1986年2月)から約10年後の1995年でした。

1986.4.10.
Cecil Taylor Unit / Akademie Der Kunst

Cecil Taylor (p) Earl McIntyre (b-tb) Frank Wright (ts) Thurman Barker (marimba, per) William Parker (b)Steve McCall (drums)
アール・マッキンタイア加入後初のライブ。場所はベルリン。セシルの音がややオフ気味なのが気になるが、渾然一体となった音の塊が次々に変化していくようで、とてもスリリング。数日後のライブ「Olu Iwa」はここにブロッツマンが加わったもの。

1986.4.09.
CECIL TAYLOR / For Olim (soul note/1986)

セシル・テイラー(p)

フレーズのひとつひとつを確かめるように、ゆっくりと弾いていきます。思索的で、内省的ともいえるような演奏。ひたすら華麗な「J For Jazz Broadcasts Presents Cecil Taylor 」(1971年)や、力強い「Air Above Mountains」(1976年)などとは随分違います。かつてニューイングランド音楽院でクラシックをやっていた頃のセシル・テイラーが研究したというバルトーク、ストラヴィンスキー、ミヨーらの影を感じるのは気のせいか。この訥々としたピアノは、何故だか実に心地よい。変な言い方だけど、セシル・テイラーのアルバムにしては珍しいくらいに落ち着けるアルバムで、安心感すら感じるほど。内容的には非常に充実していて密度が濃いのだけど、いい具合の落ち着き方が自然体を感じさせてくれて、そこが心地よさに繋がっています。セシル・テイラーは時代によってスタイルを変えていますが、この時期の思索的なピアノスタイルもまた格別の味わい。怒濤のスピード感をもってエネルギッシュに弾きまくるお馴染みのセシル・テイラーとはまた違った面を見せてくれるアルバムです。

1986.4.12.
CECIL TAYLOR / Olu Iwa (soul note/1986)

Cecil Taylor (p) Earl McIntyre (tb) Peter Brotzmann (ts) Frank Wright (ts) Thurman Barker (marimba,per) William Parker (b) Steve McCall (ds)
フランク・ライトは84年のセシル・テイラーのビッグバンドに参加した後、セシル・テイラー・グループに残ります。ジミー・ライオンズとの2管で活動してましたが、85年5月29日を最後にジミー・ライオンズが病欠。86年4月にアール・マッキンタイアーが入り、その直後にペーター・ブロッツマンが参加してきます。その音源が本作。ジミー・ライオンズが居ないと逆にジミー・ライオンズの存在感がクローズアップされてしまうようで、ホーン群のそこかしこにジミー・ライオンズのフレーズ(セシル・テイラーの音のホーン化ともいえる)を探してしまいます。そんなリスナーの気も知らず勝手に吹き捲くるのがやはりブロッツマン。かつてはセシル・テイラー・ユニットの音楽すべてがセシル・テイラーの支配下にあった演奏でしたが、ここでのブロッツマンが象徴しているように、ホーンがそれぞれ微妙に支配の枠からはみ出しています。88年のベルリン・ライブで見られるパターンの前触れです。また、リズムセクションのカルテットだけの長時間演奏の後にようやくホ-ンが出て来るものの、少しだけ、というスタイルは、その後のカルロス・ワード時代にダイレクトに繋がるもの。つまり、これはまさに変化の途上にある演奏であり、だからこそ新鮮さがあります。ジミー・ライオンズが居なくなったから変化せざるを得なかったということもあるのでしょうが、試行錯誤の時期だったのではないでしょうか。ところで、このアルバムの録音の約1ヶ月後の86年5月19日にジミー・ライオンズが亡くなります。そして、5月28日には「MEMORIAL SERVICE FOR JIMMY LYONS」という追悼式(ライブもあったのだろうか?)がN.Y.のSt.Peter's Churchで催されました。そこではなんと、サニー・マレイ、アンドリュー・シリル、ラシッド・ベイカー、デニス・チャールズといったセシル・テイラー・ユニット歴代のドラマーが勢揃いしています。

1986.(date unknown)
CECIL TAYLOR & MARIAN MCPARTLAND / MARIAN MCPARTLAND PIANO JAZZ RADIO SHOW (PIANO JAZZ 1986)

Cecil Taylor (p) Marian McPartland (p)

ラジオ番組「MARIAN MCPARTLAND PIANO JAZZ RADIO SHOW」にセシル・テイラーがゲストで出演したときの音源。マリアン・マクパートランドとセシル・テイラーの対談と演奏。ピアノを前にしての対談で、途中でセシル・テイラーがピアノソロを弾いたり、セシル・テイラーとマリアン・マクパートランドが即興のデュオをやったりするのだが、このデュオがミスマッチで結構面白い。端正でいかにも白人的なソロを繰り出すマリアン・マクパートランドに対し、セシル・テイラーはパーカッシブなソロ。普段聴いてるときにはセシル・テイラーのパーカッシブな面はそれほど感じないが、こうやってマクパートランドと比較すると、ものすごく打楽器的な奏法であることに気付く。また、対談でのセシル・テイラーはとても紳士的。これがスクエアなイメージのマリアン・マクパートランドに合ってるわけですが、元からこういう人なのかな。それとも合わせたのかな?

1987.11.03.
CECIL TAYLOR/Live In Bologna (Leo/1987)


セシル・テイラー(p)カルロス・ワード(fl, as)リロイ・ジェンキンス(vln)ウィリアム・パーカー(b)サーマン・バーカー(marimba,ds)
「It Is In The Brewing Luminous」(80年)や「Winged Serpent」(84年)ととにセシル・テイラー・ユニットが80年代に放った傑作。前年に亡くなったジミー・ライオンズの役割を引き継ぐことになったカルロス・ワードが実に素晴らしい。ジミーライオンズ離脱後の1986年、セシル・テイラー・ユニットのホーンはフランク・ライト、アール・マッキンタイア、カレン・ボルカ(basoon)、カルロス・ワード、などが入れ替わり立ち代り入ることになりますが、1987年11月にはカルロス・ワードで落ち着くことになります。そしてこのアルバムからの3部作(1987年11月3日、7日、13日録音)がカルロスワード時代ともいうべき短くも充実した時代です。この翌年の88年には例のベルリンライブがあるので、その後のセシル・テイラーの変化を考えると、このLEOレーベル時代がアメリカン・フリージャズ的スタイルでの、いわば最後の時代ともいえるでしょう。あくまでも「ジャズ」のイディオムを使って即興演奏を行うカルロス・ワードがどこかノスタルジックです。88年以降のヨーロッパ即興演奏家たちとの演奏では味わうことの出来ない、いかにもモダンジャズな趣き。ある意味1962年の歴史的アルバム「カフェ・モンマルトル」への原点回帰ともいえます。セシル・テイラーが左手で繰り出す不思議なハーモニーを基調に、右手でそのヴァリエーションを展開させ、他の楽器群がそれをまた展開させていくというパターン。ドラムが地味なせいもあって全体のトーンも派手さはありませんが、70分休み無く続いていく音の流れの中で、様々な色合いを感じることが出来ます。 

1987.11.07.
CECIL TAYLOR / Live In Vienna (LEO/1987)

セシル・テイラー(p,voice)カルロス・ワード(fl, sax)リロイ・ジェンキンス(vln)ウィリアム・パーカー(b)サーマン・バーカー(marimba, ds, per, voice)

セシル・テイラ-・ユニットの代表作のうちのひとつ。とんでもない名盤です。カルロス・ワード時代の3枚はいずれも名盤ですが、本作はその中でも格別素晴らしい。セシル・テイラー・ユニットにとって、ブルーノートの2枚とGreat Paris Concert (Student Studies)を出した1966年に匹敵するのがこの1987年。それくらい音楽的な高みに達した感があります。ヨーロッパ組との合流を目前に控え、ブラック・ルーツのフリージャズが最高潮にまで達した姿。まさに音による桃源郷。途中(B面)の、マリンバやフルートなどが出て来て不思議な音世界を醸し出す部分はセシル・テイラー・ユニットの新境地といえるでしょう。すべての音がそれぞれ必然性を持って鳴っているのがよく分かります。まず、サーマン・バーカーが素晴らしい。ときおり鳴らすゴングの音色が実に効果的です。マリンバはこのユニットに新しい色合いを吹き込んでいます。そして、カルロス・ワード。サックスのフレーズがジミー・ライオンズにそっくりだけど(とはいえ当然のことながら音の感触は全く違い、カルロス・ワードもまた全く独自の音色を持っています)、カルロス・ワードの方は比較的長いスパンのフレーズを繋ぎ合わせます。かつてドン・チェリーがカルロス・ワードを高く評価していたようですが、ジミー・ライオンズと同様にあまりにも評価が低すぎです。ウィリアム・パーカーの音数が多く浮遊感のあるベースは、曲の方向性と可能性を開かれたものにしています。如何様にも変化する可能性を感じるのはこの独特なベースのおかげ。リロイ・ジェンキンスのヴァイオリンは全体のトーンを決めるほどにインパクトがあり、ときおり出て来るテーマ部でのサックスとのユニゾンなどはまるで管楽器であるかのように存在感を示します。そして、セシル・テイラーは曲全体を俯瞰で見て音を散りばめるようなバランスのよさ。88年のベルリン・ライブの音源に比べ、LEO時代のアルバムはあまり陽の当たらない印象がありますが、このLEO時代(カルロス・ワードの居た時代)こそ本当に聴くべき音であり、セシル・テイラー・ユニットの真骨頂です。

1987.11.13.
CECIL TAYLOR/ Tzotzil Mummers Tzotzil (LEO/1987)

セシル・テイラー(p)カルロス・ワード(fl, as)リロイ・ジェンキンス(vln)ウィリアム・パーカー(b)サーマン・バーカー(marimba,ds)

カルロス・ワード時代のセシル・テイラー・ユニット3部作の最後にあたるアルバムで、88年のベルリン・ライブ直前の記録。また、70年代からつづいたセシル・テイラー・ユニットの方法論での最終章ともいえる作品です。7分間のヴォイスパフォーマンス(ポエトリー・リーディング)の後、マリンバ、フルート、ヴァイオリン、ピアノ、ベースによる、のどかな即興アンサンブルで始まります。これほどまでにほのぼのとした風景のセシル・テイラー・ユニットは珍しい。たしかにいつものようにそれぞれの楽器がせわしなく鳴ってはいるものの、非常に穏やかです。なごみます。さわやかです。カルロス・ワードのフルートのやさしい表情が印象的です。この穏やかなペースがずっとつづくと思いきや、24分頃からカルロス・ワードのアルト・サックスが出てきて雰囲気が変わります。サックスはここからわずか5分程度なんですが、ここが最大の聞き所。このサックス、ちょっと驚いた。これはカフェ・モンマルトルのジミー・ライオンズではないか。バップフレーズを崩しながら新しくアブストラクトなフレーズを組み立てていく、あのモンマルトルでのジミー・ライオンズ…。前年(86年)に亡くなったジミー・ライオンズが降りてきたかのようなこの瞬間に感動しました。そして、それまで心穏やかに(?)ピアノを叩いていたセシル・テイラーが突然目覚めるのもこのときです。かつての高弟であり相棒であったジミー・ライオンズの姿がテイラーに見えたのか、いつでも冷静沈着なはずのテイラーのピアノが珍しく熱くなります。この5分間だけは本当に聴く価値アリ。いや、このアルバム、最初と最後のヴォイスパフォーマンスに目をつぶれば(笑)、文句なしの名作です。

1987.11.16.&17.
CECIL TAYLOR / Chinampas (LEO / 1987)

セシル・テイラー(poetry, voice, tympani, bells, small percussion)

ポエトリー・リーディングだけのアルバム。セシル・テイラーはピアノを弾いていません。たまにパーカッションが鳴りますが、基本的にはポエトリー・リーディングだけです。90年の「Double Holy House」と同じように多重録音部分があります。B面冒頭ではセシル・テイラーが鼻歌を歌ってます。なかなか貴重です(笑)。本作はセシル・テイラー・マニアでもかなりの難物なのではないでしょうか。とはいえ、ずっと聴いていると、ポエトリー・リーディングが歌のように聴こえてきて(特にB面)、それなりに味わいもあります。ポエムの内容がよく分からないので(LPのジャケにはポエム自体書いて無い)、ヴォイス・パフォーマンスとして捉えるしか無いわけですが、多重録音なども使っているせいか、意外に音楽的。80年代から始まったセシル・テイラーのポエトリー・リーディング/ヴォイス・パフォーマンスの集大成ともいえるアルバムです。ちなみにこのアルバムはLPとCDとでジャケが違っていますが、LPジャケの方が数段素晴らしく、アルバム内容にもピッタリと合っているので、これだれは絶対にLPの方で所有すべき。セシル・テイラーのアルバム中、最大の珍盤。

1988.6.17.
CECIL TAYLOR /Riobec(1988/FMP)

セシル・テイラー(p)ギュンター・ソマー(ds)

ベルリンでのライブ演奏で、ドラムとのデュオ。FMPでのセシル・テイラーはヨーロッパ即興演奏家達とのセッションを通じてスタイルを微妙に変えていきます。このベルリン・ライブのシリーズはさまざまなスタイルの即興演奏家達との実に面白いセッションばかりです。それまでのパターンでは自分のグループの演奏家がセシル・テイラーのフレーズを自分の楽器に置き換えて音を作っていたようなところがありましたが、ヨーロッパ即興演奏家達はそれとはまるで反対のスタイルを取り、セシル・テイラーとの絶妙なコラボレイションを実現させています。どれもその場その場で自然発生的に生まれた生々しい音楽になっています。セシル・テイラー音楽のさらなる変化の出発点はこのベルリンでの諸作といえるでしょう。FMPのこのベルリン・ライブのアルバムはシリーズ化されてまして、個別にも売ってたしボックスセットとしても売ってました。すべて1988年6月~7月に録音されたものです。デレク・ベイリーとのデュオや、エヴァン・パーカーとの共演といった、夢の共演があるのがうれしいところ。さて、本作は、セシル・テイラーのピアノによるモノトーンの幾何学模様にギュンター・ソマーのドラム&パーカッションという「色」が加わった、という感じのアルバム。ギュンター・ソマーは、自らセシル・テイラーに飲み込まれることにより不思議なハーモニーをつくり出し、驚くほどなめらかなリズムを展開しています。そして随所で鐘をキンコンカンと鳴らしていたりして、それがまた何故だかセシル・テイラーのピアノにピッタリとハマってまして、実に心地よい。そしてセシル・テイラーはといえば、かつてミルフォード・グレイヴスに「気持ち悪い」と言われた「男男」したエネルギー迸るままの力強さでピアノをガンガン叩いたり、静かな調子で淡々と弾いたりと、いろんな表情を見せております。そして、トータルで見るとやはり理路整然とした印象が残り、爽快そのものです。

1988.6.20.&21.
CECIL TAYLOR/ In East Berlin (FMP/1988)

セシル・テイラー(p)ギュンター・ソマー(ds)

CD2枚組で、1枚目はセシルのソロ。2枚目はギュンター・ソマーとのデュオ。ギュンター・ソマーとは、本作の数日前の録音の「Riobec」もあり、2作目となるデュオです。こちらもまた「Riobec」に劣らぬ名演。

1988.6.26.
CECIL TAYLOR / REGALIA (FMP/1988)

セシル・テイラー(p)ポール・ローフェンス(selected drums and cymbals)

このときのベルリン・ライブの記録は "CECIL TAYLOR IN BERLIN ´88" としてCD十数枚にまとめられてますが、ヨーロッパ即興演奏家たちとセシル・テイラーとの邂逅といった趣きであって、それまでのセシル・テイラーのライブとはちょっとニュアンスが違います。セシル・テイラーは基本的にエリントン、モンクといったジャズの王道(?)をひっそりと内側に抱えていますが、ヨーロッパ即興演奏家たちにはそういった黒人的ジャズの色合いが全くありません。だからこそ新しいものが生まれるのでは、と考えたのかどうなのか知りませんが(笑)、異種格闘技戦的な面白さがあることはたしかです。このベルリン・ライブのシリーズでのハイライトはデレク・ベイリーとのデュオでしょう。しかし、他のものだってそれに劣らず聴きごたえがあります。で、このポール・ローフェンスとのデュオ。ポール・ローフェンスのパーカッションがセシル・テイラーにまとわりつくように絡んできます。ポール・ローフェンスはセシル・テイラーの独特のリズム感に合わせているのか、あるいは単にそう聞こえるだけなのか、ピアノとパーカッションがあまりに一体化しているので、まるでピアノソロのような感覚です。

1988.6.30.
CECIL TAYLOR / The Hearth(FMP/1988)

セシル・テイラー(p)エヴァン・パーカー(ts)トリスタン・ホンジンガー(cello)

88年以降のセシル・テイラー音楽のスタイルの変化を象徴しています。これまではユニットであれセッションであれ、セシル・テイラーの強い引力ですべての楽器のベクトルをテイラーの方へと向かわせていましたが、このアルバムでは3人がそれぞれ分散して音を作り上げています。求心型から分散型へ。アメリカ・フリージャズからヨーロッパ即興演奏へ。共演者に合わせたというよりも、セシル・テイラー自身が新しい次元へと変化していったと見るべきでしょう。しかしながらセシル・テイラーはこのスタイルになってもやはり例の基本形のモチーフは手放しません。つねにブラックとしてのルーツを保ちながらの即興演奏で、エヴァン・パーカーやホンジンガーらのやっていることとは微妙に違うのですが、そこが逆に面白味となっているわけで、FMPでのセシル・テイラー音楽が持つ妙なスリル感はまさにそこに由来します。

1988.7.02.
CECIL TAYLOR European Orchestra/ Alms/Tiergarten (FMP/1988)

Enrico Rava (tp, flh) Tomasz Stanko (tp) Hannes Bauer (tb) Christian Radovan (tb) Wolter Wierbos (tb) Martin Mayers (hr) Peter Brotzmann(as, ts, tarogato) Hans Koch (ss, ts, bcl) Evan Parker (ss, ts) Louis Sclavis (ss, cl, bcl) Peter van Bergen (ts) Cecil Taylor (p) Gunter Hampel (vib), Tristan Honsinger (cello) Peter Kowald (b) William Parker (b) Han Bennink (ds)

88年のベルリンライブのシリーズ中でも最も多彩なメンバーによる作品。CD2枚組。ヨーロッパ即興シーンのそうそうたるメンバーを揃えながらも、出て来る音楽はやっぱりセシル・テイラーの世界そのもの。出だしでハン・ベニンクが人力ドラムンベースをやり出そうが、 ギュンター・ハンペルが出てこようがルイ・スクラヴィスが出てこようが、セシルの大きな構築物の中にきっちりと収まっています。ヨーロッパのアーチスト達と本格的に交流し始めた1988年はセシルにとってまさに新しい時代のはじまりとも言えます。本作はそのはじまりを高らかと告げる渾身の力作。

1988.7.03.
CECIL TAYLOR / Remembrance (FMP/1988)

セシル・テイラー(p)ルイス・モホロ(ds)

あの「Forest And The Zoo」があまりにも印象的なルイス・モホロ。デュオという形でその演奏を堪能出来るのは嬉しいかぎりです。セシル・テイラーとの絡み方はアンドリュー・シリルの方法に比較的近く、セシル・テイラーもどことなくやりやすそう。物凄い密度で音を組み立てていくセシル・テイラーの裏で、ルイス・モロホはひたすらパスル状の音を放出していきます。88年のベルリン・ライブのシリーズはドラムとのデュオが6作品(うちギュンター・ソマーは2作品ある)あって、5人の違ったドラマーとのデュオが聴けますが、各ドラマーのセシル・テイラーへのアプローチの仕方がそれぞれ違うのがとても興味深い。

1988.7.09.
CECIL TAYLOR & Derek Bailey/Pleistozaen Mit Wasser (FMP/1988)

セシル・テイラー(p, voice) デレク・ベイリー(g)

88年のベルリン・ライブのシリーズ中、誰もが注目したであろうセッションがこれ。デレク・ベイリーとのデュオ。全2曲。ヴォイスパフォーマンスやダンス、そしてピアノ線をかき鳴らすだけの1曲目はとりあえず飛ばし(笑)、2曲目の方なんですが…。水と油なのか、あるいは良いコンビネーションなのか、…どちらとも取れるような妙なセッション。只の「音」を出すデレク・ベイリーに対し、「音楽」を奏でるセシル・テイラー。ヨーロッパ・フリーとフリー・ジャズとの歴史的邂逅は、お互いに探り探りの様子で始まります。セシル・テイラーはデレク・ベイリーのギターの小さな音色に合わせたのか、小さな音でピアノを弾きはじめます。デレク・ベイリーはいつも通りのパターン。しかしながらセシル・テイラーはずっと何かを探りつつ音を紡ぎます。いつもの基本型が出てこないのが新鮮です。やがてセシル・テイラーは音数を増やしていきます。しかし、あくまで両者の関係性の中で自然に出て来た音。これまでのセシル・テイラーは、どんな状況下であっても(あのマックス・ローチとのデュオであっても)あくまで自分のスタイルが中心であり、それを崩すことをしませんでしたが、ここではそんな頑固さは見られません。いつになく柔軟、且つ、いつになく相手の音との関係性に気を使っている様子。デレク・ベイリーの単なる「音」を、「音楽」へと変えていくセシル・テイラーの魔術を見ることが出来ます。


1988.7.10.
CECIL TAYLOR / Spots, Circles, And Fantasy(FMP/1988)

セシル・テイラー(p)ハン・ベニンク(ds)

ハン・ベニンクはまるでかつてのシャノン・ジャクソン(1978年)のように定形リズムを並列的につぎつぎと繋ぎ合わせるかと思えば、サニー・マレイのように全方向的に開かれたリズムを繰り出してみたりして、ありとあらゆるリズムを展開させる。要するに様々なリズムパターンの切り貼りなわけです。ジャズの歴史から、またはジャズとは関係ないところからも、いろんなリズムを持ってきて、ひとつの地平に並べる。で、そこから浮かび上がってくるのは、80年代ポストモダン的な展開ということ。ヨーロッパ即興音楽の中枢にいるハン・ベニンクが時代に即した音作りをしていたということが興味深いところです。そして、それがまたあからさまではなく、さりげないのが鬼才の鬼才たるところ。セシル・テイラーはといえば、それまでのように自分のシナリオ通りに音楽を構成するというわけではなく(ここが88年ベルリン・ライブ以降に顕著なところ)、全く先行き未定の中、相手との関係性の中で自然な即興を繰り広げ、最終的にはやはりきちんとした形に仕上げてしまってます。とぎれとぎれのグルーヴ感を持つハン・バニンクとのデュオということで、そのへんの手腕の見事さがよく見えてきます。ところで、ハン・ベニンクといえば、ドルフィーの「ラスト・デイト」で良く知られるわけですが、そのエリック・ドルフィーは、セシル・テイラーのグループで演奏したくてしょうがなかったそうです。ドルフィーは1964年に亡くなっているので、それ以前のセシル・テイラーのアルバムを聴いていたか、あるいは実際に演奏に接していたかのどちらかでしょう。アイラーとジミー・ライオンズの2管時代のセシル・テイラー・ユニットに接してたのかもしれません。ドルフィーはいつでもセシル・テイラー・グループに参加出来るように練習を重ねていたといいます。ある日ドルフィーは、セシル・テイラーのグループでついに演奏出来、うれしさのあまりその場で卒倒してしまった、という夢を見たそうです。死の何日か前のことだそうですが…。もし、ドルフィーが生きていたら、あの「ユニット・ストラクチャーズ」はドルフィーが参加してただろうと思うのです。「ユニット・ストラクチャーズ」でのケン・マッキンタイアーの演奏を聴くにつけ、これはドルフィーの代役なのではなかろうかなんて気分になるのですが…。

1988.7.15.
CECIL TAYLOR / Legba Crossing (FMP/1988)

セシル・テイラー(voice)Paul Plimley (p) Sabine Kopf (fl) Daniel Werts (oboe) Brigitte Vinkeloe (fl,as,ss) Joachim Gies (as) Ove Volquartz (ss,ts,b-cl) Heinz-Erich Godecke (tb) Harald Kimmig (vl) Alexander Frangenheim (b) Uwe Martin (b) George Wolf (b)H. Lukas Lindenmaier (ds) Peeter Uuskyla (ds) Trudy Morse (vooice)

きっちりと作曲され、各メンバーもきっちりとその枠内で演奏しているからか、人数の割にはそれほど音圧は感じません。また、セシル・テイラーはピアノを聴いておらず、指揮者及びヴォイスとして参加。しかしながら、この音楽のどこを取ってもセシル・テイラーの色になってるわけです。かつてのミンガスもエリントンもそうであったように、セシル・テイラー自身のプレイが無くてもセシル・テイラーの音楽であることが分かるほどに音楽の個性が強いってことですね。 

1988.7.16.
CECIL TAYLOR / Erzulie Maketh Scent (FMP/1988)

セシル・テイラー(p)

1988年のベルリン・ライブ・シリーズの11作品のアルバム中、唯一のピアノソロ・アルバムが本作。傑作です。1988年6月17日から7月17日までつづいたベルリン・ライブの中で、これは7月16日の演奏。アルバム単位でいえばラストから2番目の録音です。ヨーロッパ即興演奏家たちとの沢山の共演を経た後のピアノソロということになります。この時代、セシル・テイラーのピアノソロ作品は毎年のようにありますが、このアルバムはその中でも比類無き構成美を誇ります。この見事なまでのバランス感覚こそセシル・テイラー音楽の神髄。ひとつ前のピアノソロ「For Olim」(86年)からの連続性が無いわけでもありませんが、その間に入る87年のソロ作「Chinampas」(ピアノは一切弾いていない)の存在と、本作の後にFMPから毎年ピアノソロ作を出している(91年まで)こと等を考えると、本作がピアノソロに於ける新しいスタートともいえる位置づけにあると考えることも出来そうです。

1988.7.17.
CECIL TAYLOR / Leaf Palm Hand (FMP/1988)

セシル・テイラー(p)トニー・オクスレー(ds, per)

セシル・テイラーは初めから飛ばします。この時代、たいていは非常にゆっくりと静かに始まり徐々にスピードを上げていくのですが、ここでは最初から猛ダッシュ。マックス・ローチとのデュオ作品と同様のケースです。トニー・オクスレーのパルス状の細かいリズムに触発されたんでしょうか。ローチとのデュオ作品との違いはといえば、こちらの方が曲の構成に気を使ってそうなところ。ところでトニー・オクスレーといえば、この年の後半からトニー・オクスレー、ウィリアム・パーカー、セシル・テイラーのトリオでThe Feel Trioと名乗り、ツアーを行うことになります。そしてこのThe Feel Trioでのアルバムを数作品(中にはCD10枚組という壮絶なものもある)出すことになります。そのトニー・オクスレーとの記念すべき出会いを記録したこのアルバム。どの瞬間を切り取っても同じような密度で、音の流れも滑らかです。

1988.8.04.&05.
DEWEY REDMAN, CECIL TAYLOR, ELVIN JONES /Momentum Space (verve/1988)

セシル・テイラー(p)エルヴィン・ジョーンズ(ds)デューイ・レッドマン(ts)

このアルバム、注目はエルヴィンとの共演ということでしょう。セシル・テイラーとエルヴィン・ジョーンズとの共演は他に、1999年9月7日~9日にNYのBlue Note Clubにてデュオを、2001年11月29日に同じくNYのBlue Note Clubでデュオをやっております。それらの音源の所在は分かりませんが、そのうち出て来ることを切に願う次第です。というわけで、まず5曲目のセシル・テイラーとエルヴィンとのデュオに注目。ここでのエルヴィン、3拍子を中心とした複合リズムに徹しています。お馴染みのエルヴィンです。そして、比較的静かな演奏。この妙な静かさに呼応したのか、セシル・テイラーもやや静かに弾いています。かつてのマックス・ローチとセシル・テイラーとの壮絶なデュオとは対照的です。エルヴィンのリズムは体の呼吸、鼓動、循環のリズムに自然に対応したものなのに対し、セシル・テイラーのリズムは頭で考え抜き徹底的に練り上げたものなので、本来水と油。しかしながら、一体化したり融合したりするだけがインタープレイでは無いということを教えてくれるかのように、見事に面白い音楽になっていて、内容豊かなものになっております。また、3人での演奏の1曲目、6曲目ですが、デューイ・レッドマンの動きが興味深い。1曲目の方はバップフレーズを織り交ぜながら組み立てておりこれをもう少し抽象的にすれば62年のジミー・ライオンズのようだし、6曲目の方はといえばモード主体の組み立て方でこれはまるで64年のコルトレーンのよう。…などと見るのはデューイ・レッドマンに失礼だろうか?セシル・テイラーにとってはサックス、ピアノ、ドラムのトリオは「カフェ・モンマルトル」や「アキサキラ」などがあるように、かつてのレギュラー構成。当然デューイ・レッドマンもそれは知ってるのでジミー・ライオンズを意識したとしても不思議ではないと思うのだが。それはそうと、ここでのセシル・テイラーはいつもの基本モチーフを持ち出してきます。もうこの時代になると、どんなメンバーであれどんな楽器構成であれ、まるで印籠のごとく基本モチーフを持ってくるようになったセシル・テイラーですが、その変奏のヴァリエーションによりすべてに対応してしまうにもかかわらず、出てくる音はいつも新鮮。セシル・テイラーの音楽はいつも厳しい規則や規制で統率されていますが、その制約があるからこそ逆に自由な精神を発揮出来るのかもしれません。

1989.6.08.
CECIL TAYLOR /In Florescence (A&M/ 1990)

セシル・テイラー(p)ウィリアム・パーカー(b)グレッグ・ベンディアン(per)

このアルバム、まるでセシル・テイラーの基本形モティーフのサンプル集のような様相を見せています。基本形のサンプル集といえば、ピアノソロの「ソロ」(73年)も同じ様なアルバムでしたが、こちらの「イン・フロレセンス」はそのトリオ版といった感じか。もちろん、「ソロ」以降、セシル・テイラー音楽には新たな基本形が加わっていて、それらをシンプルな形で聴くことができます。80年代から頻繁に試しているポエトリーやチャントなども聴く事が出来、ある意味総決算のような感じか。ドイツFMPやイギリスLEO、イタリアSOUL NOTEなど、ヨーロッパのマイナーレーベルでのセシル・テイラーとは明らかに違うニュアンス。やはり、アメリカのA&Mという大きなレーベルでアメリカ国内および世界に向けて流通する、ということを意識して作ったものだからこそこういった内容になったのかもしれません。

1989.11.01.
CECIL TAYLOR / LOOKING(Berlin Version) SOLO(FMP/1989)

セシル・テイラー(p)

セシル・テイラーのピアノは基本的に明るい。肯定的でドライな感触に貫かれています。このアルバムで演奏が佳境に入ったところ(2曲目9分すぎあたり)でセシル・テイラーのご機嫌な掛声が聞こえてきますが、なんだかセシル・テイラーのピアノの明るさを象徴するかのような場面です。そんなわけでこのアルバム、まず最初の10分くらいはいつもと様子がやや違って、いつもよりもさらにアブストラクトな演奏がつづきます。ノンイディオマティック・インプロヴィゼイションなる言葉が浮かんできますが、それも長くはつづかず、11分あたりから少しずつ基本モチーフが姿を現します。混沌とした音の中から徐々に姿を現すそのモティーフは、なにやら巨大な構築物が大きな音を立てて地中から出て来るかのよう。暴力的なまでの低音の連打が快感です。この「LOOKING」のシリーズは本作を含めて3枚出ており、録音順では本作がいちばん最初のもの。あの1988年ベルリン・ライヴ・シリーズのつぎのアルバムに当たるのが本作になります。

1989.11.02.
CECIL TAYLOR / Looking(BERLIN VERSION)The Feel Trio (FMP/1989)

セシル・テイラー(p)ウィリアム・パーカー(b)トニー・オクスレー(ds)

88年のベルリンライブのシリーズの最終日で共演した(「Leaf Palm Hand」)トニー・オクスレーとはよほど相性がよかったのか、その後89年の11月にかけてベースにウィリアム・パーカーを加えたトリオでツアーを行います。そのツアーの総決算的なライブがこの89年のアルバム。とにかくイイのです、これが。トニー・オクスレーはシンバルやハイハットを中心にしたスタイルで独自の音空間を演出し、アルバム全体のトーンを決めてしまってます。そして、ミュート気味の細かなパーカッションは他の楽器の音を消すことは無く、繊細です。トーンが安定しているので心地よさすら感じます。また、ベースのウィリアム・パーカーは81年からずっとセシル・テイラーのグループのベーシストを勤めており、この時代にはもうすっかりセシル・テイラーの片腕的存在になっています。名手ジミー・ライオンズ亡き後、このウィリアム・パーカーの存在は意外に大きい。音数がやたらと多いのが特徴ですが、細かく音の流れが変化していくセシル・テイラーにはピッタリ合っているようです。ところでこの時代、セシル・テイラーはアルバムを量産しており、88年には11枚、89年は3枚、90年は6枚、という充実ぶり。本作はこの絶好調時代のド真ん中のアルバムです。不思議な勢いもあります。名作の多いドイツFMP時代の初期の名作です。

1989.11.03.&04.
CECIL TAYLOR / Looking (Corona) (FMP / 1989)

セシル・テイラー(p)トニー・オクスレー(ds)ウィリアム・パーカー(b)ハラルド・キミグ(vln)ムニール・アブドゥル・ファター(cello)

セシル・テイラーは音楽の中で個人個人の音に反応して行くのではなく、音楽の全体を見渡して音を置いていきます。だから時には他の演奏者を無視したかのような音の置き方に見えることもありますが、それは単に全体という視点から見て適宜音を置いているだけであって、決して他の演奏者の音を無視して独走しているわけではありません。常に俯瞰視しているわけです。セシル・テイラーの音楽に常にある構築感とバランス感覚はそこに由来します。本作でも、混沌とした音の塊の中でのセシル・テイラーのピアノの動きは実にバランスがよく、ときにはピアノの存在すら感じさせないほどにさりげなく音を置いていたりします。LEOレーベル時代(1987年)の音空間にやや近いものも感じます。ところでこのアルバムは「Looking」3部作のうちの3つめの作品で、「Looking/ The Feel Trio」のトリオにチェロとヴァイオリンが加わったもの。ストリングス(チェロとヴァイオリン)が隙間無く音を敷き詰めていくので、音がひとかたまりとなって飛び出してきますが、その塊がつぎつぎに形を変えていく様は見事。




(文:信田照幸)


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