Cecil Taylor 90's セシル・テイラー 1990年代


(1950年代1960年代1970年代1980年代1990年代2000年代~)


1990.2.16-19, 1990.3.10-11
Art Ensemble of Chicago with Cecil Taylor /Thelonious Sphere Monk (DIW/1990)

セシル・テイラー(p,voice)レスター・ボウイ(tp, etc)ジョゼフ・ジャーマン(ss,as,ts,fl,etc)ロスコー・ミッチェル(ss,as,ts,fl,etc)マラカイ・フェイバース(b,etc)ドン・モイエ(per,etc)

アート・アンサンブルのメンバー全員がいるうちに共演アルバムが実現して本当によかったと思う(1984年10月30日にも共演しているがアルバム化されてはおらず、ビデオのみ)。梅雨の時期の雑草のごとくじわじわと繁殖していくような大自然の驚異的イメージのアート・アンサンブルと、マンハッタンの高層ビル群を吹き抜けていく風のようなイメージのセシル・テイラーとの共演。セシル・テイラーの圧倒的なパワーでAEOCを飲み込むかと思いきや、逆にセシル・テイラーが何の抵抗も無くAEOCにとけ込んでいくような展開になっています。征服から共存へ、とでも言った感じでしょうか。AEOCの各メンバーのバランス感覚のよさみたいなものも感じます。セシル・テイラー・ユニット史上最高のサックス奏者にしてセシル・テイラー・ユニットの盛り上げ役(?)ジミー・ライオンズがいたらこういう展開にはならないだろうなあ、なんてふと思いました。そういえばジミー・ライオンズの1969年のファースト・アルバムはジミー・ライオンズとレスター・ボウイの2管でしたね。

1990.6.29.
CECIL TAYLOR / Celebrated Blazons/The Feel Trio (FMP/1990)

セシル・テイラー(p) トニー・オクスレー(ds,per) ウィリアム・パーカー(b)

とにかくトニー・オクスレーのドラム&パーカッションが素晴らしい。セシル・テイラーにとってトニー・オクスレーとの出会いは、1988年のベルリン・ライブから始まるFMP時代の最大の収穫はのうちのひとつ。サニー・マレイやアンドリュー・シリルとはまた違った方向からセシル・テイラーに切り込んでくるトニー・オクスレーのスタイルは、セシル・テイラー音楽に新しい次元を持ち込んだといえます。このトニー・オクスレーとウィリアム・パーカー、そしてセシル・テイラーのトリオが、わざわざThe Feel Trioと名乗ってツアーを行ったのも、オクスレーとの相性が良かったからでしょう。The Feel Trio名義では本作の他に1989年の「Looking」があります。 

1990.7.08.
CECIL TAYLOR / CT: THE DANCE PROJECT (FMP/1990)

CECIL TAYLOR(p) WILLIAM PARKER(b) MASASHI HARADA(per)

ダンスと詩と音楽のイベントなので、音だけだと多少分かりづらい部分もあるけど(所々女性ダンサーたちの声なども入っている)、それでも音楽だけで十分魅力的。前半と後半に分かれいてそれぞれ2曲づつ、全4曲。前半1曲目の最初の数分間のピアノソロの部分に、このアルバム全体に出て来るモチーフのほとんどが凝縮されています。2曲目以降はそれらモチーフの変奏曲。そもそもセシルの音楽は基本的に小さな断片をひとつのモチーフとしてそれの変奏曲として展開されます。本作に於いてそのモチーフはおおまかに言って2つのパターンとして現れる。ひとつは水平方向に静かに流れる音列、もうひとつは垂直方向に激しく立ち上がる音列。本作はこの静と動のダイナミズムの上に成り立っています。細かく見ても静と動が交互になっているだけでなく、前半と後半が静と動になっており、全体的にフラクタルな構造。ところで「ピアノによってダンサーのステップを模倣しようとしてきた」というセシルの言葉があるけど、本作ではまさにその言葉どおりのダンスのようなピアノです。静の部分ではレガートも使った伸びやかな優雅さがあるかと思えば、動の部分では激しくスピーディなフットワーク。パーカッションのMasashi Haradaはそのピアノの影のようについてまわります。このパーカッションがまた不思議で、これまでのセシルのドラム・パーカッション系共演者のように音空間にパルスを散りばめるのでは無く、静寂を確認するために音を出すというような、そんなニュアンスすらあります。そしてウィリアム・パーカーは緩やかなうねりを出すように、音空間の地の部分を支えています。本CDは全部で39分程度ですが、セシルのアルバムの中でも特異な印象のものです。

1990.7.22.-23.
CECIL TAYLOR / Double Holy House (FMP/1990)

セシル・テイラー(p,per,vo)

ピアノを弾き、パーカッションをたたき、ポエトリー・リーディング。そのバイタリティに驚くばかりです。出だしの静かなピアノが実に素晴らしい。一部ポエトリー・リーディングの多重録音があるのが珍しい。アルバムを量産してた時期の音源です。単なるピアノソロを超えた新しい時空間で、奇盤「Chinampas」(1987年)と通常のピアノソロとが合体したような様相。圧倒的な集中力で濃密な音世界を展開していたそれまでのピアノソロとは少し違い、隙と余裕と間とを最大限活かした、バランスの取れたアルバム構成です。

1990.7.26.
CECIL TAYLOR / Nailed (FMP/1990)

セシル・テイラー(p)エヴァン・パーカー(ts,ss)バリー・ガイ(b)トニー・オクスレー(ds)

セシル・テイラーのブリティッシュ・カルテットとでもいうべきか。セシル・テイラー以外は皆イギリス人です。88年のエヴァン・パーカーとの共演時(「The Hearth」)よりもこちらの方がしっくり来てます。実に素晴らしい内容。この時代、セシル・テイラーはベースにずっとウィリアム・パーカーを使っていますが、ここでは何故かバリー・ガイ。ひたすら煽りまくるウィリアム・パーカーとは違い、バリー・ガイはいろんなパターンで絡んできます。故に単調にならずに、起伏や波が生まれています。出だしのセシル・テイラーの低音とともにモコモコと面白い音を出すベースが新鮮。また、トニー・オクスレーのパーカッション的ドラムは他の楽器の音を消すことがなく、うるささを感じないので実に心地よいです。そして、何と言ってもエヴァン・パーカー。この独自の奏法は本当にインパクトが強い。エヴァン・パーカーの場合、あくまでメロディを奏でていたジミー・ライオンズとは違って、音の塊をそのまま投げてきます。しかも休み無しに連続投下。もちろん、きちんとメロディを奏でているんですが、そんな感じに聴こえてくるのが面白い。そして、セシル・テイラーは完全にグループのイニシアティブを取っており、テイラーが弾くフレーズがひとつのきっかけになって曲の場面が変化していくことがよく分かります。エヴァン・パーカーはその変化のきっかけになるフレーズをそのまま繰り返すことにより、曲の流れを加速していくかのようです。全体を通し、音の塊がつぎからつぎへと積み重なり、まるでサンティアゴ・カラトラヴァの建造物のような巨大な音の塊が出来上がっていくような印象。本当に充実したアルバムです。

1990.8.27 - 9.01.
CECIL TAYLOR / 2 Ts For A Lovely T (Codanza/1990)

Cecil Taylor (p) Tony Oxley (per) William Parker (b)

10枚組CDで、1990年8月から9月にかけてのロンドンでのライブ音源。音質もなかなか良好。これはもう10枚全部で1曲みたいな感じ。どこを取ってもほぼ同じ水準、同じテンション、同じ密度。この集中力と体力はただ事ではありませんが、聴く方にも集中力と体力が要求されるかも。とはいえ集中して聴けば聴くほど細かい微妙なニュアンスが聴き取れるのでそれ相当の充実感はあります。この3人はThe Feel Trioとして「Looking」(89年)とか「Celebrated Blazons」(90年)などを出してます。オクスレイの色彩感豊かなパーカッションは終始鮮やかで、アイデア豊富。また、ベースのウィリアム・パーカーが物凄くて、ほとんど主役級。録音のせいかベース音がブンブンと凄まじく、ある意味快感です。
ところで、セシル・テイラーを単に「教養」で聴いてる人や、あるいはムード音楽(この場合はアバンギャルドな雰囲気を演出するものとしての音楽)として聴いてる人には、このへんから全くついていけなくなるのではないでしょうか。何故なら本作はセシルの本質的な部分だけでCD10枚組ということなので、教養やムード音楽としてであればさすがにこのボリュームはきついのではないかと。本質的というのは要するに、無駄な部分を削ぎ落としていった結果残る音という意味です。そもそもセシルの音に無駄な部分など無いのでこの言い方はちょっと変かもしれませんが、言い換えれば派手な部分や作為的な部分、そういうところがぜんぜん無い、ということ。セシルは表面的には実に派手でパワフルかもしれませんが、核になる部分(骨格となっている部分)は幾何学模様のような均一の広がりをもった美しさです。本作はその「ゾーン」に入った時間CD10枚分を無防備な形で叩き付けるようなもの。セシルからの挑戦状とでもいった感じでしょうか。

1990.9.30.
CECIL TAYLOR / Melancholy (FMP/1990)

セシル・テイラー(p)バリー・ガイ(b)トニー・オクスレー(ds)エヴァン・パーカー(ss,ts)Tobias Netta(tp)Wolfgang Fuchs(sn.bcl)Harri Sjostrom(ss)Volker Schlott(as)Thomas Klemm(ts)Jorg Huke(tb)Thomas Wiedermann(tb)

4日前に録音された「Nailed」のカルテットにホーン7人を加えた総勢11人というメンバーで録音されたのが本作。作曲部分と即興部分が絶妙に混ざり合い、とてもおもしろい作品になっています。人数が多い割には、それぞれの楽器の音が他の音に消されずに聞き取れます。このあたりはセシル・テイラーの作曲に於けるバランス感覚の良さの現れでしょう。ノンイディオマティックなヨーロッパ即興演奏家をこれだけ集めながらもヨーロッパ的ではなくセシル・テイラー独自の色に染め上げてしまう技はただ事ではありません。また、数多いホーンの中でもエヴァン・パーカーの存在感はやはり際立っています。ところでこのアルバムのライナーに大きく見開きでセシル・テイラー直筆の楽譜の写真が載っています。このアルバムで展開されている曲の楽譜でしょうが、音符の羅列のような、コード表のような、分かるような分からないような…(笑)。ひとつ言えることは、この音楽が極めてきっちりと考え抜かれて構成されているということ。セシル・テイラーの音楽はすべてこのようにきちんと構成されたものばかりです。セシル・テイラーにピアノを習ったという方が「セシル・テイラーのコードチェンジは意外に簡単だよ」と言った、という話を、とある方から聞きましたが、え?コードチェンジなんてあったの?と、そこに居た人皆が驚いてました…(笑)。ちなみに、このアルバムが録音された1990年、セシル・テイラーは7枚ものアルバムを録音しています(しかし発売はいずれもかなり後になってから)。とても充実していた時期、というよりも、そもそもセシル・テイラーには好不調など無いので(セシル・テイラーにはスランプ期や低迷期といったものが全くありません)、録音に恵まれた時期と捉えるべきでしょう。

1991.3.19.
CECIL TAYLOR / The Tree of Life (FMP/1991)

セシル・テイラー(p, vo)

88年の「Erzulie Maketh Scent 」、89年の「Looking」、90年の「Double Holy House」につづく、91年のピアノ・ソロのアルバム。ちなみにこの後、ピアノ・ソロのアルバムは2000年の「The Willisau Concert 」まで無いので、本作はかなり貴重です。最初に短いヴォイス・パフォーマンスがあった後、静かにピアノ・ソロに入ります。もはやソロのテーマ曲のようになったモチーフから入り、どんどん変化させていきます。そして変化しながらも必ず元のモチーフに戻ってきます。静かなパートとエキサイティングなパートの落差が大きいのは2000年の「The Willisau Concert 」に直接繋がる要素。80年代半ばからソロでのスピード感を少し落として新たな展開を見せてきていますが、本作のように強弱のコントラストをくっきりと出すにはかなり効果的。

1991.5.9.
Cecil Taylor & Rada / New York Live, Knitting Factory New York City

Cecil Taylor(p) Raphe Malik(tp) Carlos Ward(as) Glenn Spearman(ts) John Bruschini(g) William Parker(b) Thurman Barker(marimba) Andre Martinez(per) Tony Oxley(ds)
ニューヨーク、ニッティング・ファクトリーでのライブで、91年5月9日、10日、11日の3日間に渡って開催されたもののうちの初日の音源。このビッグバンドにはRadaという名前がつけられているようだ。このニッティング・ファクトリー内容はセシルから静かに始まり、ドラムのトニー・オクスレイがそこに加わり、ひとりひとりが徐々に加わっていって、混沌となる。とはいえそこにはちゃんと構成があって、とりあえずピークのあとひと段落し、アブストラクトでバランスのよい音空間が続いて行き、そしてまた混沌へと突入。この繰り返し。ちなみに混沌のピークのときのセシルはフレーズを弾かず、ゲンコツと肘打ちの繰り返し。

1991.9.9. 
CECIL TAYLOR / 1991.9.9. Jazz Club Fasching, Stockholm

CECIL TAYLOR(p) WOLFGANG FUCHS(sopranino sax)HARRI SJOSTROM(ss) BARRY GUY(b) TONY OXLEY(ds)

FMPからアルバム化されててもおかしくないような内容。ここでのセシルは瞬発力が凄い。ソプラノとソプラニーノの痙攣するかのようなパッセージはなんだかテープの早送りのようにも聴こえるし鳥の鳴き声のようにも聴こえる。音空間の混沌ぶりはセシル・テイラーの音源の中でも最高峰のうちのひとつだし、そのマグマのような混沌の中から自然と現れ出てくる秩序に、何かただならぬものを感じます。驚きしかない。

1991.10.16.
Cecil Taylor Ensemble / Hamburg 1991

Recorded live at the Fabrik, Hamburg on October 16, 1991,
during the Hamburger Jazz Festival.
Cecil Taylor (p) Wolfgang Fucks (ss, b-cl) Harri Sjostrom(ss) Sirone (b) Tony Oxley(ds)
このクインテットはかなり凄い。この音源はあまりに素晴らしすぎるので是非公式盤として出して欲しいものです。90年の「Melancholy 」でも参加してたWolfgang FucksとHarri Sjostromが大活躍。Wolfgang Fucksのキュルキュルという不思議なサックスとHarri Sjostromの高速細切れフレーズのサックスが一体化して、まるで鳥の大群が飛んできたかのようです。スティーヴ・レイシーの「森と動物園」にも通じる音空間。ジミー・ライオンズ~カルロス・ワードらのかつての基本パターンとは全く違った方法論です。1988年以降たまにこのような音作りは見られます(エヴァン・パーカーのときなど)が、これほど徹底したものは珍しい。この二人の音響的サックスがシローン、オクスレイ、セシルのトリオと互いに作用しあって、なんとも美しい流れを作り出しています。シローンのベースは語彙が豊富で実に面白いし、オクスレイのドラムもこれまた音の種類が豊富です。曲自体は構成がハッキリしており、緩・急が交互に来ます。文句無しの名演奏。

1991.(date unknown)
CECIL TAYLOR / Burning Poles (ISLAND / 1991)

セシル・テイラー(p, vo)トニー・オクスレー(ds, per)ウィリアム・パーカー(b)ヘンリー・マルティネス(per)

The Feel Trio にヘンリー・マルティネスが加わったカルテットによる演奏で、VHS映像(約50分)。87年に「Live In Bologna」「Live In Vienna」「Tzotzil/Mummers/Tzotzil」という世紀の傑作群を発表した後、88年には例のベルリン・ライヴがあってトニー・オクスレーと共演し、89年にそれまでレギュラー・ベーシストだったウィリアム・パーカーとともにThe Feel Trio という最強のピアノトリオを組織することになります。このトリオによるアルバムとしては、「Looking/ The Feel Trio」(89年)「Celebrated Blazons」(90年)の他に10枚組の大作「2 Ts for A Lovely T」(90年)なんかもあり、まさに怒濤の快進撃を続けていました。そしてこのビデオ作品はその快進撃の途上にある91年の演奏を捉えたものです。さて、この作品は「POLES」(ポエトリーリーディング)、「THE SILENCE OF TREES」(カルテット演奏)「FOR(1st Part)」(カルテット演奏&ポエトリーリーディング)、という3部構成。最初のポエトリー・リーディングでは、セシル・テイラーは紙を手に持ち、ときに踊りながら、マレットでピアノ線を叩きながら、あるいはピアノ線をかきむしりながら、ピアノをたたきながら、詩を読みます。それも、ただ読むのではなく、長く引き延ばしながら、大声を張り上げながら、あるいは小さな声で、早口になったりゆっくり読んだりと、ただでさえ何を言ってるのかよく分からない詩がさらに分かりづらくなっています。しかしながらこのスタイル、実はセシル・テイラーのピアノを弾くときのスタイルそのままなのです。このビデオの中でおそらく一番最初に演奏されたであろう「FOR(1st Part)」を見てみると、セシル・テイラーはまずピアノの上に置かれた紙に書いてある譜面をちらちらと見ながらピアノを弾いていきます。出て来る音はいつもの基本的モチーフです。その基本になるモチーフがどんどん形を変えて、長く引き延ばされたり短くまとめられたりして、展開されます。音だけを聴いてみると、このパターン、セシル・テイラーのいつものスタイルです(そしてこのビデオの2つ目の「THE SILENCE OF TREES」での長いカルテット演奏(約30分)では、それらの基本モチーフが演奏の中のそこかしこにちらちらと散文的に置かれています)。ポエトリー・リーディングとピアノ演奏とのこの共通点。セシル・テイラーの創作が常にスジの通ったものであることを証明するかのようです。ところで、「THE SILENCE OF TREES」の途中、非常にエキサイトして盛り上がっているときに、セシル・テイラーの左手から多彩な和音が繰り出されます。この和音の冷静さにも、セシル・テイラーの音楽に対する姿勢が現れています。表面上どんなに盛り上がっているようにみえても、常に冷静。肘打ち、手のひら打ち等のアクロバティックな技も、よく見ると「叩き付ける」のではなく「弾いて」います。すべて計算済みです。髪を振り乱して凄い形相になっても、手だけは常に冷静。セシル・テイラーの音楽に漂う品の秘密はこのへんにもあるのかもしれません。 

1992.7.1.
CECIL TAYLOR BILL DIXON DUO

Cecil Taylor(p) Bill Dixon (tp)
Theatre Antiqueで行われたVienne Jazz Festivalでライブ。ときおりディレイを効かせるBill Dixonのトランペットから繰り出されるスペーシーな音空間がなかなか決まっている。2000年のアルバム「CECIL TAYLOR BILL DIXON TONY OXLEY」の前哨戦のような雰囲気もある。

1993.4.08.
CECIL TAYLOR /Always A Pleasure (FMP/1993)

セシル・テイラー(p)ラシッド・ベイカー(ds)シローン(b)トリスタン・ホンジンガー(cello)チャールズ・ゲイル(ts)ロンギニュー・パーソンズ(tp)ハリー・シェーストレム(ss)

92年から95年の間に吹き込まれた唯一のアルバム(前作が91年のピアノソロ「The Tree of Life」で、この後が96年の「Almeda」です)。92年から95年の間の公式アルバムは本作しか無いものの、セシル・テイラーはライブ活動も定期的に行っており、中には能管の一噌幸弘とパーカッションの富樫雅彦とのトリオやデュオがあったり(92年)、ダンスの田中泯とのデュオがあったり(92年)と、日本人とのセッションなどもやっております。さて、本作ですが、ノイズの要素(チャールズ・ゲイル)を取り入れ、ますます巨大なブラックホールのようなスケールの大きな音楽になっています。管楽器(ts,ss,tp)と弦楽器(b,cello)との対比も面白い。曲自体が混沌としていて輪郭が判りづらいけれども、ピアノ、ドラム、ベース、チェロのカルテットでのリズムセクションが非常に充実しており聴きごたえ十分。3曲目が特に素晴らしい。

1993.7.18.
CECIL TAYLOR ENSEMBLE / Konfrontationen (1993)

Jazzgalerie, Festival Konfrontationen Nickelsdorf 18th July, 1993
Cecil Taylor (p, voice) Charles Gayle (ts) Harri Sjostrom (ss) Tristan Honsinger (cello) Reginald Workman (b) Rashid Bakr (ds, per)

ヴォイス・パフォーマンスから始まるわけですが、セシルだけでなくバックのメンバーも何やらお経かマントラみたいなものを唱え、チーンという鈴(りん)の音まで聞こえます…。声明のようだ、といえば言えなくはありませんが…。さて、この音源は「Always A Pleasure 」の3ヶ月後のもの。この時期のセシルのグループの物凄い混沌を味わう事が出来る貴重な音源です(93年前後は音源が少ない)。メンバーもかぶってますが、ベースがSironeからReginald Workmanに変わってます。また、tpが抜けています。チャールズ・ゲイルの四方八方に拡散した音を中心に置き、そのまわりを他の音がぐるぐると取り囲むような、かなり異様な音空間です。数あるセシルの音源の中でも阿鼻叫喚度ナンバーワンくらいのクラスです。かなり混沌としています。 Rashid Bakrのドラムの激しさも凄い。しかしながらよく聴けばその中に確固たる秩序があるわけで、その秩序はセシルの冷静なピアノが作り上げています。

1994.6.25.
CECIL TAYLOR / Live at the Village Vanguard, New York (1994)

Cecil Taylor (p, voice) Reggie Workman (b per) Rashid Bakr (ds, per) 1994.6.25.

出だしのパーカッションが面白い。この時期のセシルはいつもパーカッションとヴォイスパフォーマンからゆっくりと入る。このライブもまた同じ。そして、徐々に盛り上がるというより突然盛り上がる感じ。それがずっとつづく。合計100分以上。93年の「Always A Pleasure」と95年の「Almeda」「The Light of Corona」に挟まれた時期で、セシルの演奏も壮絶極まり、とんでもないゾーンに入っていきます。

1995.11.12.
CECIL TAYLOR QUINTET / Fabrik, Hamburg, 20th Jazz Festival

November 12, 1995
Cecil Taylor (p,voc) Harri Sjostrom (ss) Tristan Honsinger (cello) Thurman Barker (marimba,perc) Paul Lovens (ds)

人数の割にはあまり全体の音が重々しくならないのは録音状態のせいか、それともPaul Lovens のユニークなドラムのおかげか…。どこか風通しのよい演奏です。それぞれの楽器が浮かんでは消え浮かんでは消え、セシルのピアノに溶け込んでいきます。Harri Sjostromのソプラノサックスの音とTristan Honsingerのチェロの音が似たようなトーンで交互に浮かび上がってくるのが面白い。Thurman Barkerのマリンバは1987年のLEOレーベルの諸作を思い起こさせてくれます。

1996.11.02.
CECIL TAYLOR / Almeda (FMP/1996)

セシル・テイラー(p)トリスタン・ホンジンガー(cello)Chris Matthay(tp)Chris Jonas(ss, as) Harri Sjostrm(ss) Elliott Levin(ts,fl) Jeff Hoyer(tb) Dominic Duval(b) Jackson Krall(ds)

このとき、ジミー・ライオンズが亡くなって10年目。この10年間のセシル・テイラーの変化は本当に大きく、ジミー・ライオンズに代わるサックス奏者を探すというよりも、ジミー・ライオンズが居ない場合のセシル・テイラー音楽の可能性を探っていた時期のようにも見えます。中にはピアノを一切弾かないアルバムなんてのも出しました。また、詩、Vioce、といった新しい領域を開拓していく時期でもありました。そして90年には、10年ぶりにアメリカのレーベルからアルバムを出しました(「In Florescence」)。しかし何といっても大きかったのは88年、ヨーロッパ即興演奏家達との共演で、この前と後とではセシル・テイラー音楽のニュアンスが大分違っています。それまでは音楽の隅々にまでセシル・テイラーの強烈な意志のようなものが行き渡っており、その枠からはみ出すような要素は全く無かったわけですが、ヨーロッパ即興演奏家達との演奏では、所々予測不能ともいうべき音が飛び出してきたりします。そういった不確定要素も含めた新しいセシル・テイラー音楽というものを徐々に作り上げていく過程をFMPの諸作で見ることが出来ます。そういう意味ではドイツFMPとの出会いはその後のセシル・テイラーにかなりプラスに働いていると言えるでしょう。本作はその FMPからの96年作品。例のごとくベルリンでの録音。トリスタン・ホンジンガー以外はそれほど知られたメンバーではありませんが、演奏の方は実に素晴らしい。かつてのセシル・テイラー・ユニットが各メンバーとも同じセシル・テイラー・フレーズを奏でていたのとは違い、ここでは各メンバーがそれぞれ違った方向性で音を発しています。しかしそれでも強烈な統一感があるのは、音の流れ全体を俯瞰で見ることのできるセシル・テイラーの手腕。逆に言うと、各アーチストがセシル・テイラー抜きでセシル・テイラー音楽を再現することが不可能であることを露呈しています。一斉に違ったベクトルとして放射していく音を、中心から強力に引っぱっり戻すセシル・テイラーの引力。この引力こそが、FMPでのセシル・テイラーの魅力。

1996.11.03.
CECIL TAYLOR /The Light of Corona (FMP/1996)

セシル・テイラー(p)トリスタン・ホンジンガー(cello)Chris Matthay(tp)Chris Jonas(ss, as) Harri Sjostrm(ss) Elliott Levin(ts,fl) Jeff Hoyer(tb) Dominic Duval(b) Jackson Krall(ds)

「Almeda」の翌日の録音で、メンバーは一緒。各楽器が静かに点々と鳴りはじめ、徐々にひとつの方向へと音が連なっていきます。混沌から秩序へ、という流れ。ヴォイス・パフォーマンスも盛り込んだ、ごった煮的様相ではあるものの、不思議と静かに感じられる音空間です。そして、この壮大な音空間から強烈に感じられるのは、見事なまでの構成力。とはいえキッチリとガチガチに構成されているわけではなく、混沌とした音の数々を大きな袋でまとめて緩く穏やかに積み上げたような、とてもスケールの大きい印象。これほどまでに充実した音楽ですが、実はこの「The Light of Corona」と「Almeda」は3年ぶりのアルバム(前作は1993年「Always A Pleasure」)。この間、3年も何もしていなかったわけではなく、数々のセッションやツアーなどを行っており、中でもサニー・マレイとのいくつかのセッションには注目です。CD化して欲しいところです。

1997.10.03 &04.
CECIL TAYLOR / The Cooler Sessions

Cecil Taylor(p, voice) Dominic Duval(b) Jackson Krall(ds) Thurston Moore(g) Tom Surgal(ds, per) 
1997.10.03 &04.

全部で2日間6セット分の音源なのだが、注目はセシル・テイラーとサーストン・ムーアの共演。セシル・テイラーとサーストン・ムーアの絡みは2日目のセット。まず30分間サーストン・ムーアの騒音がつづいた後セシル・テイラーの音楽が加わり、そこから30分つづきます。他はセシルのトリオ演奏で、翌年にはこのトリオにサックスのHarri Sjostoromが加わってライブ盤「Qu'a:Live at the Irridium」が録音されます。

1998.3.29.
CECIL TAYLOR / Qu'a: Live at the Irridium, vol. 1 (CADENCE JAZZ RECORDS/1998)

Cecil Taylor (p) Harri Sjostrom (ss) Dominic Duval (b) Jackson Krall (ds)
1998年NYのIrridiumでのライブ音源。ワンホーンカルテットです。公式録音のワンホーンのカルテットは1990年の「Nailed」以来となります。ちなみにその前はジミー・ライオンズ在籍時の1981年の「The Eighth」まで遡ります。そう考えると結構貴重な音源です。というわけでこのアルバム。ここではやはりソプラノ・サックスのHarri Sjostromに注目。なんとも柔軟で、フロントというよりも全体に溶け込むようなサックスです。セシルのピアノは相変わらずバランス感覚が抜群で、常に全体の構成を俯瞰視しているかのような演奏。とても密度の濃い作品。

1998.3.29.
CECIL TAYLOR/ Qu'a Yuba: Live at the Iridium Vol. 2 (CADENCE JAZZ RECORDS/1998)

Cecil Taylor (p) Harri Sjostrom (ss) Dominic Duval (b) Jackson Krall (ds)

「Qu'a: Live at the Irridium Vol.1」の続編(同日録音)。「Melancholy」(1990年)、「Always A Pleasure」(1993年)、「Almeda」(1996年)、「The Light of Corona」(1996年)、といったFMP作品でも参加していたHarri Sjostromの柔軟なサックスが際立ちます。Jackson Krallのパーカッシブで丁寧なドラムも見事。 

1998.10.30
Cecil Taylor / Lifting The Bandstand (Sluchaj/1998)

Cecil Taylor (p) Harri Sjostrom (ss) Tristan Honsinger (cello) Teppo Hauta-Aho (b) Paul Lovens (ds, per)
この音源は1998年10月30日フィンランドのタンペレJazz Happeningでの演奏。最初の5〜6分は例のごとくセシルのポエトリーリーディングのようなものが続き、その後静かに演奏が始まる。Harri Sjostromはかつてのジミー・ライオンズとは違ったアプローチで短い断片を繰り出すように音を紡ぎ出している。ポール・ローフェンスのパーカッションも音色が豊富で面白い。このメンバーでの録音は他に1998年7月19日(オーストリアのニッケルスドルフでのFestival Konfrontationen)、7月24日(フィンランドのRaaheでのJazz Festival)、11月(フィンランドのTampereでのJazz Happening)、1999年2月14日(イタリア、ベルガモでのJazz Festival)、3月18日(フランスのボビニーでの第16回Festival Banlieues Bleues)、3月21日(ドイツ、ケルンのFunkhaus)、3月31日(ドイツ、ハンブルクのNDR FUNKHAUS STUDIO 10)、4月3日(チェコ、プラハのSpanelsky Sal)、5月13日(スイスのポスキアーヴォ湖UNCOOL Festival)、5月15日(前同)、などの記録があり、これが当時のツアーのレギュラーメンバーだったようだ。セシル存命中このメンバーでの正規盤は出ることが無かったが、かなり質の高い演奏。ベースのTeppo Hauta-Ahoがレア。

1998.12.04.
Cecil Taylor / Yoshi's, December 1998

Cecil Taylor(p) Joe Locke (vib) Santi Debriano(b) Jackson Krall(ds)

カリフォルニアのオークランドでのライヴ。この時期のセシル・テイラーのグループはDominic Duval かTeppo Hauta-Ahoがベースなんですが、このライヴツアー(12月4日~6日の3日間)では Santi Debrianoがベースになってます。で、このベースがなかなかすごい。攻めまくります。ものすごい早さのピチカートでガンガン攻めます。ヴァイブのJoe Lockeが目玉のはずが、どうしてもこのベースに耳が行ってしまう。で、この攻めのベースにJackson Krallのタイトなドラムがこれまた合う。このリズムセクションの上にセシル・テイラーとJoe Lockeの波のようなうねりが乗って、なんとも言えぬ面白い流れを作り出しています。Joe Lockeのヴァイブは深みが無い分パーカッション的です。

1998.12.05.
Cecil Taylor Sextet / Quartet / Yoshi's, Oakland, California, 5th December, 1998

Cecil Taylor(p) Joe Locke(vib) Santi Debriano (b) Jackson Krall(ds) Oluyemi Thomas(b-cl) Ijeoma Thomas(voice)

前日(12月4日)のカルテットにb-cl(Oluyemi Thomas)とvoice(Ijeoma Thomas)が加わったセクステットの演奏と、前日と同じカルテットの演奏との2本立て。セクステットの演奏は、前半は意外に静かで各楽器がそれぞれ有機的につながっていきます。Joe Lockeのヴァイブもセシルのピアノに深く切り込んでます。中間はいつものようにカオス的な盛り上がりを見せ、後半はまたもや各楽器の静かな絡み。ヴァイブがいい感じに効いてて爽やかさすら感じます。セシルのピアノが意外に慎重で、思索的。

1998.12.06.
CECIL TAYLOR QUARTET/ SEXTET / Yoshi's, Oakland,December 6, 1998

Cecil Taylor (p,voice) Joe Locke (vib)Santi Debriano (b) Jackson Krall (ds)Oluyemi Thomas (bcl) Ijeoma Thomas (voc)

Yoshi'sの三日目。CD-Rにして4枚分という分量です。カルテット演奏と、Oluyemi Thomas (bcl) とIjeoma Thomas (voc) が参加するセクステット演奏。最初にウォーミングアップ的なそれぞれのソロがあり、その後にカルテットの演奏。ドラムのJackson Krall が飛ばします。それとともにセシル・テイラーも Joe Locke もテンション高い演奏。セシルのピアノがドン・プーレンっぽくグワングワンと飛ばすのが面白い。途中ヴォイスパフォーマンスがありますが、これは結構きつい。Oluyemi Thomasのバスクラが入ってくると、なんだか全体が引き締まります。それまで音の塊のように一丸となってたカルテットが分解されていくような感触がとてもイイです。 

1999.1.24.
CECIL TAYLOR & MAX ROACH / London January 24th, 1999 (Live In London 1999)

CECIL TAYLOR (p) MAX ROACH (ds)
1999.01.24 London Barbican Center Concert Hall

これは名演奏。「Historic Concert」がパワーとパワーのぶつかり合い的な印象があるのに対し、こちらは技と技とのぶつかり合いとでもいう感じでしょうか。特にマックス・ローチのワザに驚きます。元々モダンジャズ史上最強の技術を持ったドラマーなのでワザアリは別に珍しくもなんともありませんが、このライブにおけるローチのリズムの取り方はなんとも絶妙。まるでドラムでセシルの音楽を解説しているかのように、実に鮮やかにセシルの音楽の骨格をリズム面から描き出しています。バップ史上最速と言われるあのロックランドパレス・ライブにおける「Lester Leaps In」での狂気のチャーリー・パーカーに正気で渡り合ったマックス・ローチの雄姿を思い浮かべてしまいます(ひょっとしたらあれはローチが煽ってたのかもしれないが…)。セシルの基本的な動きというのは、一定のリズムで連続的にスウィングするのではなく、動いて・止まって・動いて・止まって…、という形ですが、この止まってる空白の時にもリズムは流れているわけで、そこのところの変拍子のようなリズムは感覚が慣れるまでは非常に捉えづらいわけです。そこをローチのドラムはハッキリと描き出してくれています。とはいえ別にセシルのピアノのリズムをそのままドラムに置き換えたようなものではなく、ローチはローチのスタイルでのドラムです。セシルのピアノを最大限生かしながら新しい音次元を創造するような形で独自のドラムをたたき出しています。ところでマックス・ローチのドラムというのは大雑把にいうと、アフリカ系リズムではなく西洋的リズム感覚 。心臓の鼓動と同じ三拍子を基本に置くミルフォード・グレイヴスやエルヴィン・ジョーンズ等とは正反対の、ヨーロッパのマーチング・ドラムなどをルーツにするリズム感です。故に、いくらでもリズムを分析的に分けて捉えることが出来ます。だからこそセシルの独特なリズム感とその構造をも明確に描き出せるのでしょう。そしてさらに凄いことには、ローチらしさをも全面的に出しているところ。これだけセシルに対応していながら、どこから聴いてもローチのドラムになっているというのも不思議といえば不思議。ローチの器の大きさをうかがい知ることが出来ます。ドラマーとして別格です。さて、セシル・テイラーの方ですが、今回はひとつのモチーフを長い時間をかけてじっくり変奏していくといういつもの形で進めるのではなく、短時間にモチーフをつぎつぎに変え変奏させていきます。ある意味セシルの曲のオムニバスのようでもあります。タッチの方も鋭く、且つスピード感もあって、密度が濃い。セシル・テイラーの数あるドラムとのデュオの音源の中でも最上級の内容です。

1999.2.12.
CECIL TAYLOR / Algonquin (BRIDGE/1999)

セシル・テイラー(p)マット・マネリ(vln)

実にさりげない1枚。1999年のライブで、発売は2004年。マット・マネリのヴァイオリンが、ピッタリとセシル・テイラーのリズムに合っているのです。事前にセシル・テイラーについて研究してたのか、あるいはあえて合わせたのかは知りませんが、まるでセシル・テイラーの生徒でもあるかのよう。呼吸が合うとはまさにこのことか、という程にスムーズです。セシル・テイラーがスピードを上げればマット・マネリもそれにピッタリ合わせてスピードを上げる。このスムーズさがアルバム全体のさりげない印象になっているようです。ECMにも録音のあるマット・マネリですが、ついでにセシル・テイラーのアルバムもECMから、なんてことにならないかなあ…。

1999.3.21.
CECIL TAYLOR QUARTET

Koln, Germany1999.3.21.
Cecil Taylor(p) Harri Sjostrom(ss) Tristan Honsinger(cello) Teppo Hauta-Aho(b) Paul Lovens(per)

1999年3月21日ドイツのケルンでのライブ音源。これは名演。音質もいいし内容もいいのでFMPあたりからCD化すればいいのに。中盤あたりから徐々にHarri SjostromのサックスとTristan Honsingerのチェロが短いパッセージを刻みながら多様なリズムを形作っていく様はちょっと凄い。 

1999.4.3.
CECIL TAYLOR / Desperados - Spanish Hall, Prague, CZ

Cecil Taylor(p) Harri Sjostrom(ss) Teppo Hauta-Aho(b) Paul Lovens(ds)
よく分からない儀式みたいな舞踏から始まる。セシルがちゃんとピアノを弾き始めるのは5分くらい経ってから。やたらと手数の多いポール・ローフェンスのドラムが素晴らしい。ハーリ・ショーストロームのソプラノはとても柔らかい。このメンバーにチェロのトリスタン・ホンシンガーを加えたグループで98年7月から99年5月までレギュラーで活動していたようだが、この日のセットには何故かトリスタン・ホンシンガーが抜けている。

1999.5.14.
CECIL TAYLOR / Poschiavo (Black Sun)

Cecil Taylor(p)
1999年5月14日、スイスのポスキアーヴォ湖で行われたUNCOOL Festivalでの演奏。この前後の日にもセシルはこのフェスティヴァルに参加しており、どちらもHarri Sjostrom、Tristan Honsinger 、Teppo Hauta-Aho、Paul Lovensのクインテットで演奏している。で、それに挟まれたこの日だけセシルのピアノソロ。ちなみにこの後はこのグループでベルギーとスペインへとツアーに出ている。というわけでこのソロライブは、翌年(2000年)の名作アルバム「The Willisau Concert」(これもスイスでのライブ)に繋がるような内容。緩急つけながらも全体としてフラクタルになっているような演奏。

1999.11.04.
CECIL TAYLOR / Incarnation (FMP /1999)

セシル・テイラー(p)フランキー・ダグラス(g)トリスタン・ホンジンガー(cello)アンドリュー・シリル(ds)

88年からつづくFMP時代の総決算ともいうべき素晴らしい内容で、FMP時代を代表する傑作。アンドリュー・シリルの細かな技が光ります。60年代からずっとセシル・テイラー・グループを支えてきたシリルは、それこそ隙間なく音を散りばめるというスタイルの演奏が多い印象がありますが、本作では66年11月の「Great Paris Concert 」(「Student Studies」)のように静かな演奏で始まります。まるでヨーロッパ流儀に則って、他の楽器の音を消さずにコミュニケーションを取るかのように演奏。もちろん例のごとく細かい音の洪水でリズムのうねりを出すところもあるものの、この静かな始まり方はとても印象的。ところで、セシル・テイラーはこの年(99年)、ドラマーとのデュオを積極的にやっています。マックス・ローチとのデュオを1月と4月にそれぞれ1回、エルヴィン・ジョーンズとのデュオを9月に3回、ジェリー・ヘミングウェイとのデュオを5月に1回。これは、本作を考える上で重要な気がします。リズムを軸に音楽的なダイナミズムを構築していくという手法はセシル・テイラーの音楽では当たり前のことですが、本作ではそのリズムの多様性という点において傑出しています。それまでセシル・テイラー・ユニットでは普通だった一本調子の直線的リズムが、ここではカラフルに変化するいわば複合的なリズムへと変化。この変化はセシル・テイラーのピアノ・スタイルの変化にそのまま対応しています。60年代のスタジオ録音におけるリズム変化や70年代後半のシャノン・ジャクソン時代のリズムの変化とは根本的に違い、音楽の流れと方向性の中で自然発生的に変化していきます。リズムが変わるきっかけがセシル・テイラーの指示だけではなくなりました。とはいえやはりセシル・テイラーは全体を俯瞰で見ています。おおまかに曲構成はあらかじめあるのでしょうが、FMP時代特有の(ヨーロッパ即興演奏特有の)不確定要素によりバラバラになりそうな所が多々出てくるところを強引にまとめあげる手腕は相変わらず。また、セシル・テイラーの音楽に沈黙という要素が加わったことにより、音楽的にもさらに豊かになったように感じます。そして本作ではセシル・テイラー作品にしては珍しく各メンバーが対等。セシル・テイラーの引きの美学が見られるのはそう多くは無いので、ある意味貴重かも。


(文:信田照幸)


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